背景写真:1945年9月9日、南京での降伏調印式。日本側代表・小林浅三郎が中国陸軍総司令・何応欽に降伏文書を手渡す。
1945年8月15日正午、日本放送協会(NHK)は、昭和天皇があらかじめ録音した「終戦詔書」を放送した。ほとんどの国民にとって、天皇の肉声を聞くのはこれが初めてだった。これが「玉音放送」である。
詔書は難解な漢文調で書かれ、「降伏」という言葉は一度も使われていない。すぐには意味を理解できなかった人も多かった。それでも、伝えられた事実は明らかだった——日本は7月26日に連合国が発したポツダム宣言を受け入れ、戦争は終わったのだ。
堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ……
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……
——「終戦詔書」(1945年8月14日署名、8月15日放送)
ポツダム宣言から南京での降伏調印まで、わずか6週間。世界は人類史上もっとも暗く、そしてもっとも大きな転換点を経験した。
中・米・英の三国が共同で宣言を発し、日本に無条件降伏を求めた。拒めば「迅速かつ完全な壊滅」が待つと警告したが、日本政府は「黙殺」で応じた。
午前8時15分、原子爆弾「リトルボーイ」が広島上空で炸裂。街は一瞬で焦土と化し、同年末までに約14万人が亡くなった。
ソ連が日本に宣戦布告。翌9日未明、150万を超えるソ連軍が国境を越え、中国東北部の関東軍に総攻撃を開始した。
午前11時2分、2発目の原子爆弾「ファットマン」が長崎で炸裂。同年末までに約7.4万人が亡くなり、さらに多くの生存者が生涯にわたり放射線の後遺症に苦しんだ。
御前会議でポツダム宣言の受諾が最終決定され、中立国スイスとスウェーデンを通じて連合国に通告された。その夜、天皇は終戦詔書を録音した。
正午、「玉音放送」が日本と占領地に流れた。知らせは重慶、延安、上海へと伝わり、何億もの中国の人々が叫んだ——勝ったのだ、と。
東京湾に停泊する米戦艦「ミズーリ」の艦上で、日本代表の重光葵と梅津美治郎が降伏文書に署名。中国代表の徐永昌も署名した。第二次世界大戦は正式に終結した。
中国戦区の降伏調印式が南京で行われた。支那派遣軍総司令官・岡村寧次が降伏文書に署名・捺印し、総参謀長・小林浅三郎が中国陸軍総司令・何応欽に手渡した。14年にわたり侵略された大地の上で、侵略者は頭を垂れた。
一つひとつの数字の向こうに、二度と帰らなかった人がいて、二度と家族に会えなかった家庭がある。
注:戦争による死傷者数は統計方法や資料によって差があります。本サイトでは一般的な学術的・公式の推計を採用しています。詳しくは出典をご覧ください。
戦火に国境はない。都市は廃墟となり、市民は住む場所を追われ、子どもたちは瓦礫の中で泣いた。画像をクリックすると拡大できます。
1945年8月15日は、侵略を受けた民族にとっての勝利の日であり、軍国主義が崩れ去った日でもある。私たちがこの日を記憶するのは、戦火に倒れたすべての人々を——どの国の人であっても——忘れないためであり、侵略者が犯した罪と、戦争を許す思想が世界をいかに奈落へと導いたかを忘れないためである。
今、あの戦争を体験した人々は一人、また一人と世を去っている。私たちが忘れてしまえば、歴史は別の姿で繰り返されるかもしれない。歴史に向き合い、戦争に反対し、平和を守ること——それはどの世代も、自らの手でやり直さなければならない課題である。