歴史を記憶し · 平和を守る

1945·8·15

その日、戦争はようやく止まった

日本時間の正午、昭和天皇はラジオを通じて「終戦詔書」を読み上げ、ポツダム宣言の受諾と無条件降伏を伝えた。 14年に及んだ中国の抗日戦争、6年にわたった第二次世界大戦は、数千万の命を犠牲にして、ようやく終わりを迎えた。

あの日から、すでに—日が過ぎた。
それでも、戦争が残した傷は本当に癒えてはいない。

背景写真:1945年9月9日、南京での降伏調印式。日本側代表・小林浅三郎が中国陸軍総司令・何応欽に降伏文書を手渡す。

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01 / 玉音放送

正午のラジオ放送

1945年8月15日正午、日本放送協会(NHK)は、昭和天皇があらかじめ録音した「終戦詔書」を放送した。ほとんどの国民にとって、天皇の肉声を聞くのはこれが初めてだった。これが「玉音放送」である。

詔書は難解な漢文調で書かれ、「降伏」という言葉は一度も使われていない。すぐには意味を理解できなかった人も多かった。それでも、伝えられた事実は明らかだった——日本は7月26日に連合国が発したポツダム宣言を受け入れ、戦争は終わったのだ。

耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……

——「終戦詔書」(1945年8月14日署名、8月15日放送)
  • 録音は8月14日の深夜、皇居内で行われた。同夜、一部の青年将校が録音盤を奪って放送を阻止しようとする「宮城事件」を起こしたが、失敗に終わった。
  • 詔書にある「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ」とは、広島と長崎に投下された原子爆弾のことである。
  • 中国、朝鮮半島、東南アジアでは、侵略と植民地支配に苦しんできた人々が知らせを聞いて街にあふれ、涙を流した。
展示されている終戦詔書
展示されている「終戦詔書」。末尾に天皇の署名「裕仁」と「天皇御璽」がある。
玉音盤
「終戦詔書」を録音した「玉音盤」。
日本の降伏を祝う上海の市民
抗戦の勝利を祝い、街にあふれる上海の市民。
02 / 最後のひと月

終戦への道

ポツダム宣言から南京での降伏調印まで、わずか6週間。世界は人類史上もっとも暗く、そしてもっとも大きな転換点を経験した。

  1. 1945 · 07 · 26

    ポツダム宣言の発表

    中・米・英の三国が共同で宣言を発し、日本に無条件降伏を求めた。拒めば「迅速かつ完全な壊滅」が待つと警告したが、日本政府は「黙殺」で応じた。

  2. 1945 · 08 · 06

    広島

    午前8時15分、原子爆弾「リトルボーイ」が広島上空で炸裂。街は一瞬で焦土と化し、同年末までに約14万人が亡くなった。

    広島(左)と長崎(右)のきのこ雲
  3. 1945 · 08 · 08

    ソ連の対日宣戦

    ソ連が日本に宣戦布告。翌9日未明、150万を超えるソ連軍が国境を越え、中国東北部の関東軍に総攻撃を開始した。

  4. 1945 · 08 · 09

    長崎

    午前11時2分、2発目の原子爆弾「ファットマン」が長崎で炸裂。同年末までに約7.4万人が亡くなり、さらに多くの生存者が生涯にわたり放射線の後遺症に苦しんだ。

  5. 1945 · 08 · 14

    御前会議の「聖断」

    御前会議でポツダム宣言の受諾が最終決定され、中立国スイスとスウェーデンを通じて連合国に通告された。その夜、天皇は終戦詔書を録音した。

  6. 1945 · 08 · 15

    日本の降伏発表

    正午、「玉音放送」が日本と占領地に流れた。知らせは重慶、延安、上海へと伝わり、何億もの中国の人々が叫んだ——勝ったのだ、と。

  7. 1945 · 09 · 02

    戦艦ミズーリ号での調印

    東京湾に停泊する米戦艦「ミズーリ」の艦上で、日本代表の重光葵と梅津美治郎が降伏文書に署名。中国代表の徐永昌も署名した。第二次世界大戦は正式に終結した。

    ミズーリ号上で降伏文書に署名する重光葵
  8. 1945 · 09 · 09

    南京での降伏調印

    中国戦区の降伏調印式が南京で行われた。支那派遣軍総司令官・岡村寧次が降伏文書に署名・捺印し、総参謀長・小林浅三郎が中国陸軍総司令・何応欽に手渡した。14年にわたり侵略された大地の上で、侵略者は頭を垂れた。

    南京での降伏調印式に臨む日本側代表
03 / 勝利の代償

歓声の陰に、数えきれない命があった

一つひとつの数字の向こうに、二度と帰らなかった人がいて、二度と家族に会えなかった家庭がある。

0万人+
第二次世界大戦の死者数
推計で約7,000万〜8,500万人。当時の世界人口の約3%にあたる
0万人+
中国の軍民死傷者数
1931〜1945年、中国は日本の侵略をもっとも長く受け、もっとも大きな被害を被った
0万人
ソ連の死者数
第二次世界大戦で最多の死者を出した国
0万人
ホロコーストで殺害されたユダヤ人
当時のヨーロッパのユダヤ人のおよそ3分の2
0万人
広島・長崎の原爆犠牲者
1945年末までに両市で合わせて約21万人が死亡
0万人+
南京大虐殺の犠牲者
1937年12月から6週間にわたる暴行(中国側の公式推計)

注:戦争による死傷者数は統計方法や資料によって差があります。本サイトでは一般的な学術的・公式の推計を採用しています。詳しくは出典をご覧ください。

04 / 戦争の傷跡

上海からスターリングラードへ、ワルシャワから広島へ

戦火に国境はない。都市は廃墟となり、市民は住む場所を追われ、子どもたちは瓦礫の中で泣いた。画像をクリックすると拡大できます。

1945年、国際連合憲章の署名
1945年6月26日、サンフランシスコ。各国代表が国際連合憲章に署名した。人類は初めて、世界的な機構によって「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救」おうとしたのである。
05 / なぜ記憶するのか

記憶するのは、憎しみを受け継ぐためではない

1945年8月15日は、侵略を受けた民族にとっての勝利の日であり、軍国主義が崩れ去った日でもある。私たちがこの日を記憶するのは、戦火に倒れたすべての人々を——どの国の人であっても——忘れないためであり、侵略者が犯した罪と、戦争を許す思想が世界をいかに奈落へと導いたかを忘れないためである。

今、あの戦争を体験した人々は一人、また一人と世を去っている。私たちが忘れてしまえば、歴史は別の姿で繰り返されるかもしれない。歴史に向き合い、戦争に反対し、平和を守ること——それはどの世代も、自らの手でやり直さなければならない課題である。